意見陳述書1 渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合
私は、渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合、通称のじれん(以下、のじれんと言う)のメンバーであり、宮下公園における2010年9月15日の全面閉鎖から9月24日の行政代執行に至る渋谷区の行政処分により、重大な被害を被った者のひとりとして、渋谷区を相手取り国家賠償請求訴訟を提起した。本訴訟の冒頭に、当日の被告渋谷区の暴挙と現在も尚被害が回復されてないことについて、怒りをもって陳述する。
のじれんは1998年4月に結成され、以降、渋谷を中心に野宿者の生存そのものを守り、生活をめぐる権利を獲得するために、炊き出し、パトロール(巡回)、医療相談、生活保護申請など活動を続けてきた。宮下公園は長期化する不況や経済危機により路上生活を余儀なくされた野宿者の寝場所としてあり、結成当初からのじれんの活動の重要な拠点としてあった。現在は東京都児童会館前で行っている炊き出しを開始したのも宮下公園であり、10年以上、毎年夏まつりや越年・越冬闘争を行ってきた。
宮下公園のテント生活者は今回の渋谷区のナイキ化計画により、遊歩道などに移転を半ば強制されたが、宮下公園を寝場所とする野宿者はテント生活者だけではなく、テントを持たずにダンボールやベンチで夜寝るだけの野宿者もいる。さらには、就労保障対策が皆無に等しく、生活保障対策も十分に機能していない中、派遣や日雇いなどの不安定雇用労働者が失業し、住居を喪失し、ネットカフェなどの宿泊代が尽きた時、体を横たえ、睡眠をとる寝場所が必要になってくる。食とともに睡眠、そもそも居住は人間の生存の必要不可欠な条件であり、新たに、または再び野宿を余儀なくされた人々は公共地を寝場所とせざるを得ない。のじれんは、定まった寝場所がないまたは、今後野宿を余儀なくされる人々に対する支援として、宮下公園に誰でも使える荷物や毛布の倉庫を設置し、長年にわたり多くの野宿者が活用してきた。このことは渋谷区公園課も承知していることであり、黙認してきた。にもかかわらず、渋谷区は2名のテント生活者を暴力的に強制排除し、公園を全面閉鎖して利用を禁止した上で、行政代執行という「伝家の宝刀」を持ち出してのじれんの荷物・毛布倉庫を強奪した。野宿者の所有物に対する行政代執行は東京では初めてであり、渋谷区の責任は極めて重大であり、本訴訟において徹底的に明らかにしていく。
一連の渋谷区の暴挙は、ナイキ化計画の実現を急ぐあまり、生存権をうたった憲法25条を真っ向否定する行為である。桑原区長はマスコミのインタビューで宮下公園の野宿者を強制排除しないと言っていたが、そもそもこのナイキ化計画の目的の一つとして「ホームレス問題の解決」、即ち野宿者排除を当初から目論んでいた。23区の中でも最悪と言われた渋谷福祉事務所の対応にみられるように、野宿者に対する就労・生活保障対策を怠り続けながら、排除だけを先行させてきた桑原区政を断固として糾弾する。
最後に、かかる渋谷区の野宿者や野宿者支援団体に対する排除行為を全国各地に波及させないためにも、当裁判所においては被告渋谷区の責任を鋭く問い、賠償と謝罪を認める判決を強く求めて、陳述を終わる。
2011年6月24日 渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合(のじれん)
意見陳述書2 元宮下公園生活者
私は去年、半年間、宮下公園に泊まっていた者です。貧しかったため、家賃が払えなくなり、ネットカフェに泊まる金もなく、宮下公園にテントを張って泊まっていたが、去年の9月に突然暴力的に追い出された。
急に荷物を置く場所も探せず、荷物の半分はあきらめ、後にテントは返してもらったけど、それを張れる場所はなく、新たに小さいテントを買い直し、以前より不自由な日々を送っている。
渋谷区のやり方に対し、抗議します。
●意見陳述書3 宮下公園アーティスト・イン・レジデンス
私は宮下公園アーティスト・イン・レジデンス、以下略してA.I.Rに参加していた●●●●●です。
A.I.Rは2010年3月15日から9月15日まで宮下公園で活動していました。
このA.I.Rは、宮下公園のナイキ化計画に反対する人たちが自主的に参加し始まりました。そして宮下公園にテントを張って滞在制作をし、「みんなの公園をつくる」というテーマで様々な取り組みを行いました。
その取り組みは、美術作品の制作、ライブや映画上映会、ワークショップなどの多様な形態をとりましたが、常に無料で多くの様々な立場の人が参加をしました。
みんなの公園をどのようにつくるか、と公園で考えたとき、公園は誰の視点でつくられているのか、そして誰に開かれている公園なのかということにぶつかりました。ジェンダーや貧困の格差、障害のあるなしなどで、誰もがいられる場に平等ではない関係性が必ず生じてくる公共の矛盾に私たちは直面しました。ある立場の人が公園にいることが出来ても、今度は他のそれより弱い立場にいさせられている誰かが来にくくなります。みんなの公園は、そのような社会の矛盾が立ち現われ、それにともなう排除に対して抵抗しつづけなければいられない場でもあります。
しかし、渋谷区とナイキジャパン社が作ってしまった公園は、利用目的を限定する有料スポーツ施設を作り利用者を特定し様々な立場の人たちを排除しています。公共空間で必ず生じる矛盾をないこととして隠蔽しています。そのような場はもはや公共公園とはいえないのではないでしょうか。
A.I.Rのイベントの一つとして、夜の宮下公園で多くの女性たちが集まり話し合い、さらに野宿をする取り組みが行われました。それによって夜、女性たちが公園にいることが、非日常的だという意味あいや、女性たちが夜の公園で感じる不安を実感しました。しかしながら、その夜、女性たち自身で、なるべく安全な場をつくることができたのです。その取り組みの体験から、自らの安心とかけ離れた管理や過剰な管理は決して安全ではなく、むしろ主体性を奪われることであり、そのような管理は暴力的だということもわかりました。
また、渋谷区は宮下公園のベンチをすべて撤去してしまったので、A.I.Rでは地域の子どもたちと廃材でベンチを作りました。それによって宮下公園が、お金を使わずに休むことができる渋谷の街の貴重な場所であることもわかりました。
このように実際に宮下公園にいて、様々な立場の人たちと問題に向き合いながら公園を考えていくことが、みんなの公園につながっていくのだと私は思っていました。
渋谷区は話し合いのないまま、9月15日の公園の全面フェンス封鎖、それに続く9月24日の行政代執行によって、AIRの作品や物件が奪い去られました。そして、より本質的には、私たちが行ってきた「みんなの公園をつくる」という6ヶ月に渡って積み上げてきたプロセスや試みそのものが奪われました。このことに強く抗議し、賠償を求めます。
2011年4月24日 宮下公園アーティスト・イン・レジデンス
●意見陳述書4 みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会
私は「みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会」(通称:守る会)に関わってきた者です。音読では違いを出せませんけれども、私たちのグループ名に書き込まれた「宮下公園」とは漢字表記のかつての公園のことです。現在の、リニューアルオープンされたひらがな表記の「みやしたこうえん」ではありません。
公園のあり方を決める手続きに、公開性が著しく欠け、スケートボード場、クライミングウォール、フットサル場など有料施設が公園の約半分を占める現在の「みやしたこうえん」は、残念ながら「みんなの」公園とは言えないと思います。守る会の名前には、まず最初に「みんなの」という言葉から始まります。この「みんなの…」という言葉は私たちにとって決定的に重要です。公園は渋谷区行政、またナイキジャパンといった一企業のものではないからです。
渋谷区長および数名のみの議員が、議会すら通さずに、ナイキジャパンと「宮下NIKEパーク」の計画を進めてきました。こういった非民主的な手続きで進められるナイキパーク化計画から「みんなの宮下公園」を守るため、さまざまな立場の人たちが集まりました。こうして守る会が立ち上げられたのです。現在の「みやしたこうえん」は密室から生まれた不幸な公園です。本来、その場所を育て、豊かにしていくのは公園を日々訪れる人たちです。公園に来ない議員やナイキジャパン社員ではありません。にも関わらず、渋谷区とナイキジャパンは、公園を実際に使っていた人たちを手続き上だけではなく、さまざまな形で….ときには身体的な暴力を伴って排除し尽くしてきました。
「弁明の機会」の付与なしに、強引にそこにいた人を公園からたたき出し、私達の荷物を奪っていった行政代執行はもちろんです。それだけではありません。公園封鎖後の荷物を引き取りにいく権利が私達に保障されている期間においても、「現場責任者」であると役職を偽っていた都市整備基盤担当、植木副参事が「逮捕するぞ」、「荷物をとりにいくのは時間切れだ」と法的根拠もないままにあってはならない恐怖心だけを私達に植えつけようとしました。こういった渋谷区の勝手な規制のせいで荷物を取りにいきづらくなった人たちもいました。
4月30日の「みやしたこうえん(ひらがな)」リニューアルオープン時には、日置土木清掃部長を中心とした区職員が私たちに対して荷物チェックを行ったり、小さなプラカードを手に持っているだけで公園内への立ち入りを、拒否するという事態が起こりました。一方で、この日の公園の中には多数の公安警察がたむろしている状態でした。そのあと、二名が逮捕され、怪我を負った人も出るなど、この日の公園は、ほんとうに異常な場所でした。
渋谷区とナイキジャパンは計画の当初からリニューアルオープンまで、一貫して非公開的な態度に終始し、公園を訪れる多様な人たちの存在を排除してきました。そのため現在の「みやしたこうえん」は屋外にありながらも密室、のようです。私達は被告渋谷区の不法行為からこうむった損害について謝罪と賠償を求めると同時に、多様なひとたちが集い、楽しみ、困難も自分達で解決していく本来の豊かな公園を取り戻したいと考えています。
最後に。
3月11日。東日本大震災当日、渋谷でも帰宅困難者が溢れていました。ひとびとが路上に溢れているさなか、工事中の「みやしたこうえん」のフェンスはひっそりと開くことはありませんでした。まるで公園がそこにはなかったようです。現在も夜間は公園に誰も入ることができません。公園を使っているひとたちの声を排除し密室で考案された現在のみやしたこうえんは決定的に時代からずれています。
原発事故の実際の被害や本当の情報が明らかになるにつれ、多くの人達が怒っています。こういった現状の中、多くの人の声、存在を排除して作られた「みやしたこうえん」で起こっている事柄について、当裁判所が真摯に正しい判断をしてくださることを切に願いつつ、この陳述を終わります。
2011年6月24日みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会
私は、渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合、通称のじれん(以下、のじれんと言う)のメンバーであり、宮下公園における2010年9月15日の全面閉鎖から9月24日の行政代執行に至る渋谷区の行政処分により、重大な被害を被った者のひとりとして、渋谷区を相手取り国家賠償請求訴訟を提起した。本訴訟の冒頭に、当日の被告渋谷区の暴挙と現在も尚被害が回復されてないことについて、怒りをもって陳述する。
のじれんは1998年4月に結成され、以降、渋谷を中心に野宿者の生存そのものを守り、生活をめぐる権利を獲得するために、炊き出し、パトロール(巡回)、医療相談、生活保護申請など活動を続けてきた。宮下公園は長期化する不況や経済危機により路上生活を余儀なくされた野宿者の寝場所としてあり、結成当初からのじれんの活動の重要な拠点としてあった。現在は東京都児童会館前で行っている炊き出しを開始したのも宮下公園であり、10年以上、毎年夏まつりや越年・越冬闘争を行ってきた。
宮下公園のテント生活者は今回の渋谷区のナイキ化計画により、遊歩道などに移転を半ば強制されたが、宮下公園を寝場所とする野宿者はテント生活者だけではなく、テントを持たずにダンボールやベンチで夜寝るだけの野宿者もいる。さらには、就労保障対策が皆無に等しく、生活保障対策も十分に機能していない中、派遣や日雇いなどの不安定雇用労働者が失業し、住居を喪失し、ネットカフェなどの宿泊代が尽きた時、体を横たえ、睡眠をとる寝場所が必要になってくる。食とともに睡眠、そもそも居住は人間の生存の必要不可欠な条件であり、新たに、または再び野宿を余儀なくされた人々は公共地を寝場所とせざるを得ない。のじれんは、定まった寝場所がないまたは、今後野宿を余儀なくされる人々に対する支援として、宮下公園に誰でも使える荷物や毛布の倉庫を設置し、長年にわたり多くの野宿者が活用してきた。このことは渋谷区公園課も承知していることであり、黙認してきた。にもかかわらず、渋谷区は2名のテント生活者を暴力的に強制排除し、公園を全面閉鎖して利用を禁止した上で、行政代執行という「伝家の宝刀」を持ち出してのじれんの荷物・毛布倉庫を強奪した。野宿者の所有物に対する行政代執行は東京では初めてであり、渋谷区の責任は極めて重大であり、本訴訟において徹底的に明らかにしていく。
一連の渋谷区の暴挙は、ナイキ化計画の実現を急ぐあまり、生存権をうたった憲法25条を真っ向否定する行為である。桑原区長はマスコミのインタビューで宮下公園の野宿者を強制排除しないと言っていたが、そもそもこのナイキ化計画の目的の一つとして「ホームレス問題の解決」、即ち野宿者排除を当初から目論んでいた。23区の中でも最悪と言われた渋谷福祉事務所の対応にみられるように、野宿者に対する就労・生活保障対策を怠り続けながら、排除だけを先行させてきた桑原区政を断固として糾弾する。
最後に、かかる渋谷区の野宿者や野宿者支援団体に対する排除行為を全国各地に波及させないためにも、当裁判所においては被告渋谷区の責任を鋭く問い、賠償と謝罪を認める判決を強く求めて、陳述を終わる。
2011年6月24日 渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合(のじれん)
意見陳述書2 元宮下公園生活者
私は去年、半年間、宮下公園に泊まっていた者です。貧しかったため、家賃が払えなくなり、ネットカフェに泊まる金もなく、宮下公園にテントを張って泊まっていたが、去年の9月に突然暴力的に追い出された。
急に荷物を置く場所も探せず、荷物の半分はあきらめ、後にテントは返してもらったけど、それを張れる場所はなく、新たに小さいテントを買い直し、以前より不自由な日々を送っている。
渋谷区のやり方に対し、抗議します。
●意見陳述書3 宮下公園アーティスト・イン・レジデンス
私は宮下公園アーティスト・イン・レジデンス、以下略してA.I.Rに参加していた●●●●●です。
A.I.Rは2010年3月15日から9月15日まで宮下公園で活動していました。
このA.I.Rは、宮下公園のナイキ化計画に反対する人たちが自主的に参加し始まりました。そして宮下公園にテントを張って滞在制作をし、「みんなの公園をつくる」というテーマで様々な取り組みを行いました。
その取り組みは、美術作品の制作、ライブや映画上映会、ワークショップなどの多様な形態をとりましたが、常に無料で多くの様々な立場の人が参加をしました。
みんなの公園をどのようにつくるか、と公園で考えたとき、公園は誰の視点でつくられているのか、そして誰に開かれている公園なのかということにぶつかりました。ジェンダーや貧困の格差、障害のあるなしなどで、誰もがいられる場に平等ではない関係性が必ず生じてくる公共の矛盾に私たちは直面しました。ある立場の人が公園にいることが出来ても、今度は他のそれより弱い立場にいさせられている誰かが来にくくなります。みんなの公園は、そのような社会の矛盾が立ち現われ、それにともなう排除に対して抵抗しつづけなければいられない場でもあります。
しかし、渋谷区とナイキジャパン社が作ってしまった公園は、利用目的を限定する有料スポーツ施設を作り利用者を特定し様々な立場の人たちを排除しています。公共空間で必ず生じる矛盾をないこととして隠蔽しています。そのような場はもはや公共公園とはいえないのではないでしょうか。
A.I.Rのイベントの一つとして、夜の宮下公園で多くの女性たちが集まり話し合い、さらに野宿をする取り組みが行われました。それによって夜、女性たちが公園にいることが、非日常的だという意味あいや、女性たちが夜の公園で感じる不安を実感しました。しかしながら、その夜、女性たち自身で、なるべく安全な場をつくることができたのです。その取り組みの体験から、自らの安心とかけ離れた管理や過剰な管理は決して安全ではなく、むしろ主体性を奪われることであり、そのような管理は暴力的だということもわかりました。
また、渋谷区は宮下公園のベンチをすべて撤去してしまったので、A.I.Rでは地域の子どもたちと廃材でベンチを作りました。それによって宮下公園が、お金を使わずに休むことができる渋谷の街の貴重な場所であることもわかりました。
このように実際に宮下公園にいて、様々な立場の人たちと問題に向き合いながら公園を考えていくことが、みんなの公園につながっていくのだと私は思っていました。
渋谷区は話し合いのないまま、9月15日の公園の全面フェンス封鎖、それに続く9月24日の行政代執行によって、AIRの作品や物件が奪い去られました。そして、より本質的には、私たちが行ってきた「みんなの公園をつくる」という6ヶ月に渡って積み上げてきたプロセスや試みそのものが奪われました。このことに強く抗議し、賠償を求めます。
2011年4月24日 宮下公園アーティスト・イン・レジデンス
●意見陳述書4 みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会
私は「みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会」(通称:守る会)に関わってきた者です。音読では違いを出せませんけれども、私たちのグループ名に書き込まれた「宮下公園」とは漢字表記のかつての公園のことです。現在の、リニューアルオープンされたひらがな表記の「みやしたこうえん」ではありません。
公園のあり方を決める手続きに、公開性が著しく欠け、スケートボード場、クライミングウォール、フットサル場など有料施設が公園の約半分を占める現在の「みやしたこうえん」は、残念ながら「みんなの」公園とは言えないと思います。守る会の名前には、まず最初に「みんなの」という言葉から始まります。この「みんなの…」という言葉は私たちにとって決定的に重要です。公園は渋谷区行政、またナイキジャパンといった一企業のものではないからです。
渋谷区長および数名のみの議員が、議会すら通さずに、ナイキジャパンと「宮下NIKEパーク」の計画を進めてきました。こういった非民主的な手続きで進められるナイキパーク化計画から「みんなの宮下公園」を守るため、さまざまな立場の人たちが集まりました。こうして守る会が立ち上げられたのです。現在の「みやしたこうえん」は密室から生まれた不幸な公園です。本来、その場所を育て、豊かにしていくのは公園を日々訪れる人たちです。公園に来ない議員やナイキジャパン社員ではありません。にも関わらず、渋谷区とナイキジャパンは、公園を実際に使っていた人たちを手続き上だけではなく、さまざまな形で….ときには身体的な暴力を伴って排除し尽くしてきました。
「弁明の機会」の付与なしに、強引にそこにいた人を公園からたたき出し、私達の荷物を奪っていった行政代執行はもちろんです。それだけではありません。公園封鎖後の荷物を引き取りにいく権利が私達に保障されている期間においても、「現場責任者」であると役職を偽っていた都市整備基盤担当、植木副参事が「逮捕するぞ」、「荷物をとりにいくのは時間切れだ」と法的根拠もないままにあってはならない恐怖心だけを私達に植えつけようとしました。こういった渋谷区の勝手な規制のせいで荷物を取りにいきづらくなった人たちもいました。
4月30日の「みやしたこうえん(ひらがな)」リニューアルオープン時には、日置土木清掃部長を中心とした区職員が私たちに対して荷物チェックを行ったり、小さなプラカードを手に持っているだけで公園内への立ち入りを、拒否するという事態が起こりました。一方で、この日の公園の中には多数の公安警察がたむろしている状態でした。そのあと、二名が逮捕され、怪我を負った人も出るなど、この日の公園は、ほんとうに異常な場所でした。
渋谷区とナイキジャパンは計画の当初からリニューアルオープンまで、一貫して非公開的な態度に終始し、公園を訪れる多様な人たちの存在を排除してきました。そのため現在の「みやしたこうえん」は屋外にありながらも密室、のようです。私達は被告渋谷区の不法行為からこうむった損害について謝罪と賠償を求めると同時に、多様なひとたちが集い、楽しみ、困難も自分達で解決していく本来の豊かな公園を取り戻したいと考えています。
最後に。
3月11日。東日本大震災当日、渋谷でも帰宅困難者が溢れていました。ひとびとが路上に溢れているさなか、工事中の「みやしたこうえん」のフェンスはひっそりと開くことはありませんでした。まるで公園がそこにはなかったようです。現在も夜間は公園に誰も入ることができません。公園を使っているひとたちの声を排除し密室で考案された現在のみやしたこうえんは決定的に時代からずれています。
原発事故の実際の被害や本当の情報が明らかになるにつれ、多くの人達が怒っています。こういった現状の中、多くの人の声、存在を排除して作られた「みやしたこうえん」で起こっている事柄について、当裁判所が真摯に正しい判断をしてくださることを切に願いつつ、この陳述を終わります。
2011年6月24日みんなの宮下公園をナイキ化計画から守る会
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